『美味しさの脳科学』(ゴードン・M・シェファード著、インターシフト刊)を読む。
傍題に「においが味わいを決めている」とあるように味覚、とくに私たち人間が食事を楽しむ際に嗅覚系が重要な役割をもっていることを脳神経科学の立場から解説した本です。においの科学については類書もありますが、本書を読むと嗅覚とくに人間の嗅覚が他の哺乳類とどう違うかがよくわかります。前半ではにおいの知覚のメカニズムが概説されますが、中盤からがにわかに面白くなってきます。私たちのにおいの認識は、最近この分野で利用されているfMRIによる解析では、顔のバターン認識に似ているという指摘にはっとします。確かににおいの表現は、言葉に尽くせないところがあり、これは顔の描写と共通したところがあります。それだけではなくにおいの分子が受容体に結合する際に起こる側方抑制などの神経回路は、視覚同様においのコントラストを鮮明にします。神経解剖の議論はやや煩雑ですが、においが鮮明なイメージをもつことについての分子レベルの基盤の解明が進んでいることはたいへん興味深いものです。本書でさらに面白かったのは、私たち人間の嗅覚がげっ歯類などの嗅覚に決して劣ってはいないという点が強調されている点です。よくイヌなどより嗅細胞の数では及ばないということがいわれますが、私たちの嗅覚はその数の劣勢を他のしくみで補ってあまりあるというのです。まず解剖学的に人間の嗅脳は決して小さくはないことに加え、におい分子が鼻腔へ入る順行性の経路だけではなく、後鼻腔から入る逆行性(レトロネイザル)の経路がヒトの嗅覚に重要な働きをしていることが示され、さらに進化の過程で大きくなった大脳が嗅覚の認知回路に加わることで飛躍的な複雑さがもたらされます。著者のいうヒト脳風味系には視覚や聴覚、そして運動系が関与しているということが紹介されます。後半ではこうしたヒト風味系が可塑的であること、ドーパミンを中心として脳内報酬系と密接な関係になること(これは薬物中毒や肥満などの困った問題と表裏一体の関係にあることを意味します。ファストフードがなぜ病みつきになるのかもここを読むとよく分かります)についての研究結果が示されます。盲視と同じような盲嗅という興味深い症例もあるそうです。発達、老化や認知症にも風味が関わるなどさらにもう一冊本ができそうな勢いで話題が展開し、さらには風味と人類進化まで風呂敷ならぬテーブルクロスが広げられます。脳の解剖や生化学の話は噛み応えがあり、人によっては消化不良を起こすかもしれませんが、ワイン好きな私にとっては、ワインテイスティングの話題もあり初めから最後まで飽きるところのない本でした。脳神経科学のみならず料理や食育などに興味のある方々にもお奨めの一冊です。

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている