『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(ジョナサン・ハイト著、紀伊國屋書店刊)を読む。
進化心理学に基づいて私たちの道徳とはどういうものかを示し、どこの社会にもみられる保守とリベラルの違いがどこにあるのかを分析していく本。著者が批判的にみるのは、カントの義務論哲学やベンサム功利主義哲学です。いずれも人間の直観や情動の重要性を軽んじて、合理性に偏重した道徳論であるとし、ヒュームの立場が現実に近いと主張します。このとき著者が使う喩えが、理性は情動/直観である象に乗っている乗り手に過ぎないというものです。象である直観がまず動き、その後で乗り手である理性が戦略的思考を練る、そしてしばしば都合よくとりつくろうというのです。続く章では、その直観がどのような要素からなるのかを示します。著者によれば、道徳基盤は、〈ケア/危害〉、〈公正/欺瞞〉、〈忠誠/背信〉、〈権威/転覆〉、〈神聖/堕落〉、〈自由/抑圧〉の六つの要素から構成されます。アメリカ人である著者は、保守とリベラルの二大政治勢力は、それぞれその要素への重点の置き方が違うと論じ、前者ではこれら六つの要因すべてが関与しているのに対して、リベラルはケア、公正、自由(抑圧に対する反抗)の三つに重点が置かれていると分析しています。人によって保守派になったりリベラル派になったりするのは、生得的な好奇心の旺盛さや危害に対する不安などの遺伝的な要因もありますが、置かれた環境や生育歴も関与するとし、来歴によって主義主張は変化すると述べ、実際自分の考え方の変遷も例にだしています(インドでの生活や3.11を境にしての心境変化などはちょっと興味深い物語です)。その上で両者の長所と短所を指摘しますが、アメリカでリベラルが劣勢なのは彼らが上記の六つの道徳基盤の一部しか重視していないため、人の残りの道徳基盤に上手く訴えることができていないからだと分析します。このあたりのところは日本の政治にも応用できそうで面白いところです。著者は、この状態がいきすぎると「道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする」とし、過剰な自己集団中心主義を諫めています。この議論の途中で人間の利他性を示すために、著者は人間には生得的な集団志向性があるとし、それを説明するのに集団選択を援用していますが、この部分はやや無理があるように思えます。
その部分をのぞけば、全体として人間の本性に即して道徳というものの現象論をよく捉えたものになっているように思えます。これを踏まえて、どのような道徳の当為を導き出すのかというのはこれからの課題だといえるでしょう。