『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著、朝日出版社)を読む。
たとえば五十年前の人たちと今を比べてみる。経済的には確かに豊かになっている。けれども今なぜかこの豊かさを素直に喜べないし、未来も明るくない。これはなぜかという問いから本書の旅は始まる。こうありたいという欲望とその対象を求めることは一致しておらず、そこから人間の苦しみや愚かさが生まれることをパスカルを引きながら示される。これに対するラッセルやスヴェンセンらの処方箋の欠点が指摘されたあと、著者は退屈の系譜学へと読者を導く。ここでは狩猟時代まで時間の幅を伸ばした考察が加えられ、退屈が近代に始まるものではかならずしもなく人間へ進化した結果必然的に生まれたことを指摘する。この点はこの手の書物には目新しい展開だ。その上で同時に近代になって生まれた消費社会での暇と退屈の矛盾をヴェブレン、グラムシガルブレイスをひきつつ述べる。第四章からいよいよ本論に入り、消費と浪費の概念を明確にしたあと疎外の概念についてその歴史的経緯も含めつつ、本来性への回帰を前提とした疎外論ではなくこの現象を考察すべきことが強調される。この点は不幸な現状を変えねばならないという著者の意志が垣間見られる。そして真打ちであるハイデガーの暇と退屈の哲学が解説される。退屈には第一から第三までの三種類あり、人間として第二の退屈を生きることが普通であり、ときに第一や第三の形式に移行することがあること、第三の形式における決断主義的な生き方を説くハイデガーには異議を唱え、第一や第三の形式の奴隷となることなく、第二の形式において物をより深く享受する”贅沢”を受け取れるようにすることなどが述べられる。その過程では思考することそしてその過程こそが重要であることが強調される。著者が最後に述べているように本書は結論だけを読んではまったく意味のない本であり、最初から丁寧に論旨を追いつつ、自分の生活について反省的考察を加えることに意味がある。
記述は平易なので、著者の薦めるように註にいちいち立ち止まらず一気に読むのがいい。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学