ローマ人の物語 ローマ世界の終焉』(塩野七生著、新潮文庫)を読む。
毎年文庫化されるこのシリーズを読み続け、とうとう最後の物語となった。著者が最初に書いている、「亡国の悲劇とは、人材の欠乏から来るのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるゆえに起こる悲劇」ということが強く記憶に残るのは、震災から半年経ったこの夏に読んだせいだろうか。活用されるべき人材があるにもかかわらず、無能な上層部故に迷走を続け国を守れなくなり、蛮族の要求になすがままとなり滅びていく過程を読むと、繁栄する国はさまざまに輝いているが、衰亡する国はどれも似たようなものだと、どこかの小説の冒頭句をもじったことばを呟きたくなる。すぐれた統治システムをもちながら、キリスト教化されることによりそのシステムが変貌していく過程が特に印象的だった。宗教が悪いというわけではないが、柔軟性を欠いた原理が国是とされるようになると、優秀な人材が活用されなくなりシステムが硬直化するということは言えそうだ。この物語では、一般ローマ市民の心情はあまり描かれていないが、滅亡するシステムの内側で生活をしていた人々はどのようなことを思いつつその日を迎えたのだろうかと、(もしかすると自分も同じ立場にいるのではと思うせいか)気になってしまう。
 ローマを愛しつつも冷静な著者の筆致は特にこの最後の物語でやや物悲しさを帯びるが、随所に見られる警句的見解はいよいよ鋭い。以下特に印象深かったところを羅列しておく。

人間の運・不運は、その人自身の才能よりも、その人がどのような時代に生きたか、のほうに関係してくるのではないか(上巻 p98)

人間の多くは、安心できてこそやる気を起こすものなのだ。こうなって初めて、「国家」(res publica)と「個人」(privatus)の利害の一致も期待できるのである(上巻 p154)
人間には、絶対に譲れない一線というものがある。それは各自各様なものであるために客観性はなく、ゆえに法律で律することもできなければ、宗教で教えることもできない(上巻p218)

自身で経験したことにしか考えが及ばないようでは、官僚はやれても政治家はやれない(中巻 p58)

一国の最高権力者がしばしば変わるのは、痛みに耐えかねるあまりに寝床で身体の向きを始終変える病人に似ている(中巻 p168)

政治でも軍事でも行政でも、人間世界の多くのことは「苦」を伴わないでは済まない。ゆえにそれを国民に求めねばならない為政者に必要な資質は、「苦」を「楽」と言いくるめることではなく、「苦」は苦でも、喜んでそれをする気持ちにさせることである(下巻 p80)

ローマ人の物語 (41) ローマ世界の終焉(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (41) ローマ世界の終焉(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (42) ローマ世界の終焉(中) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (42) ローマ世界の終焉(中) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (43) ローマ世界の終焉(下) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (43) ローマ世界の終焉(下) (新潮文庫)