『語りえぬものを語る』(野矢茂樹著、講談社)を読む。
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、『哲学探究』を軸に展開していく哲学エッセイ。分析哲学的論理が展開されるかというとさにあらず、むしろ分析哲学のタイルが敷き詰めきれない隙間にこそ重要性があることをゆったりと説いていく。一般向けの本だけど論ずるところはきちんと押さえつつという感じで、読者は手綱は緩めない馭者(著者)の馬の背に同乗しながら哲学の旅をともにする。
途中デイヴィドソンなど手強い風景もでてくるのだけど、そこを著者は翻訳不可能でも言語でありうるし、習得は可能であること、概念枠というものを固定したものと考えず、理解する運動の中で捉えたいいのと諭してくれる。冒頭に論理空間などという難しそうな言葉が出てくるが、中盤この論理空間というものはあくまでもわれわれはわれわれの行為空間に生きる。そこから、そしてそこからのみ、論理空間を張ることができる」のだよと見事な逆転した視点から風景をみるよう語る。後半は私的言語の問題から過去を語るとはどういうことかが論じられる。ここでフォグリンの『理性はどうしたって綱渡りです』を紹介しつつ理性の非概念的な制約という点に触れる。この点は科学と哲学の関係を論じる上で非常に示唆的な点だと感じた(このフォグリンの本は私も読みましたがお薦めです)。最後は概念のプロトタイプ的理解について述べ、デイヴィドソンの古典的な概念観に反駁する。最後は決定論と自由について語り、自然科学の法則というものはあくまでも「探究の指針」として働いているものであり、自然科学は「世界」を語り尽くせるものではないという哲学観を披露して、旅は終わる。
旅全体をとおして論理では語り尽くせない時の流れというものをどう捉えるかという問題が通奏低音として響いているのではないかと感じた。

語りえぬものを語る

語りえぬものを語る