『ささめく物質 物活論について』(奥村大介著、現代思想vol42.1:116-129,2014)を読む。
2014年を迎えて初めて読んだ論文です。物質を文明の力で馴致してきたはずの私たちが、思いがけなくもその物質たちに牙を向けられた震災から今年で三年になります。「モノ」であるが故に私たちが飼い慣らせるはずであった物の中に、私たちにまつろわぬものが宿っていることを感じたことが契機となったのでしょうか、著者は物活論という精神史を繙きます。理性が最も信頼を置かれていた啓蒙の世紀のディドロの言説にみられる物活論にまず注目し、物質の中にある生命徴候として、感覚と運動の二つの要素があることを指摘します。指を触れれば身をよじる仕草をみせることで生命を感じるというのは誰しもが経験することであり、おそらく幼い子供が「生物」というものを認識する上での二つの徴候であることに異論はないでしょう。この物活論がは、意外にも二十世紀初頭にまで脈々と息づいていることをヘッケルの言説の中にあることを著者は指摘します。ヘッケルといえば、一元論的還元論者として知られているように、これは生気論ではなく、初源の物質から高次の物質に至る階梯(それは量的連続的変化として捉えられています)の途上で物質に顕現するものとして生命活動をとらえていることになります。これはまさにヘーゲルがいうような量的変化が質的変化をもたらす現象でしょう。物活論とは異なりますが、イオンチャネルの活動による膜電位の変化による「興奮」(それはまさしく外界の変化を感じて起こる運動です)を性質としてもった神経細胞がネットワークをつくることにより、ある時点から意識という現象が顕現するようになることと似たものを感じます。またこれも本論文で論じられていることからはそれますが、昨年読んだ『自然を名づける』(キャロル・キサク・ヨーン著、NTTT出版)に書いてあったことですが、私たちは、生まれながらに生物と無生物を直感てきに分類できる能力(著者は「環世界センス」と呼んでいます)が備わっているようで、ある部位に脳損傷を受けると生物を適切に分類できなくなるというのです。損傷により生物を生物として感じられなくなるということから類推すると、この部位がより先鋭化するとどんな無生物にも生命を感じ取るようになるのではないかということが考えられます。物活論といのは現在の物理化学からいえばまったくの誤りですが、人間の認識ということからみると、生命感知能力のひとつの極端ではないかと思え、物たちのささめきを聴き取ることができる詩人とはその能力に長けた人種なのかもしれません。最後に震災による喪失の後で詩を書くことの可能性を示唆すること(希望と私は受け止めました)で著者は筆をおいています。
最後の物のささめきを聴くという行為と詩作について私のツイートがお役に立ったようで、わざわざ謝辞をいただきました。この場をかりてお礼申し上げます。
追伸:震災における物の喪失という点でいえば、津波というマクロの暴力による殲滅という物の喪失(触れたくても記憶の中にしか物がない状態)と、放射能というミクロの暴力による排除という物の喪失(現前しているのに物に触れられない状態)では意味もかなり異なるのではと思いました。

現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ

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