夏目漱石を読む』(吉本隆明著、ちくま文庫)を読む。
1990年から3年間にかけて行われた著者による漱石の小説についての講演をまとめた本。講演がもとになっているので、読者に語りかけるようにして書かれており、読みやすい。『吾輩は猫である』から『明暗』に至るまでの小説を読み、人気作家の漱石の中に秘められた狂気や家族・親族との葛藤を読み取っていく。人間関係では作品中にある三角関係が、西欧の小説にあるような一人の女性をめぐって二人が争うという構図ではなく、二人の男性の間に親友、もっといえば同性愛関係に近い関係があり、話の進行とともに三者がそれぞれの滅びの道へと進んでいくという指摘にはなるほどと感じた。昔『こころ』を読んで(というより課題図書でよ読まされて)、「先生」と「K」の間になにか釈然としない感じを受けたのもそういうことなのだと今にして思う。

漱石的な三角関係は姦通の一般性には当てはまらないと僕は思います。また西欧の小説では、漱石が主人物にあたえているような罪障感が、作品の全体として最後に闇の中にぽっとのこるというようなことはないといえそうです。そこでは姦通はそれなりに愛のきわどい技法の問題に還元され、罪も罰もない愛の奪い合いがどんなかたちになるかの問題になります。漱石のばあいは、これとまたく異質な罪の意識の発生から、その死までの罪の一生の物語です。

『門』を論じたところで漱石が小説のなかに仕組んだ”偶然”の効果についての考察があり、ここも面白い着目点であると感じた。

漱石は偶然ということに、ある重さをいつでもかけている人です。漱石の思想のなかには偶然をとても重く見るという考え方があります。(中略)自然はしばしばそんな偶然で人間関係の行き詰まりを外らしてくれます。偶然をあまり使いすぎれば、作意された物語になってしまいます。漱石の偶然は、ちょうど自然がもたらす偶然なところに留まっています。

夏目漱石を読む (ちくま文庫)

夏目漱石を読む (ちくま文庫)

『近代という教養』(石原千秋著、ちくま叢書)を読む。
表題の副題は「文学が背負った課題」なので、近代がどのような記述のパラダイムを内在させているのかを文学、特に明治期の文学から読み解いていくスリリングな論考。近代は進化論的視点から歴史を著述する。そこで著述する観察者は因果の連鎖で記述する。小説ではその視点は主人公という立場となるのだが、そうして語られる因果物語に対して読者はそれを挿話的出来事からなるリゾームモデルに組みかえることが可能であり、それが脱構築という営為である。因果律を統括する主人公はそれ故、登場人物のどの視点からみるかによって複数の主人公による複数の物語に読むことが可能となる。物語を生きる人物は偶然性を担った単独性でなければならない。アレゴリーとしての主人公から単独者としての主人公が登場したときが近代文学における一つの転換点となる。