『猫を抱いて象と泳ぐ』(小川洋子著、文春文庫)を読む。
生まれつき上唇と下唇がくっついているという奇形を持って生まれた無口な少年がふとしたことからマスターとよばれる男からチェスの手ほどきを受け、やがてリトル・アリョーヒンと呼ばれるようになるまで成長する物語。私はチェスのことは皆目分からないが、小説を読み進むにはまったく妨げとならない。幼いとき少年はデパートの屋上にいた象のインディラのことを夢想し、寝室ではミイラという仮想の少女と対話する。マスターのところでチェスのてほどきを受けるとき、猫のポーンを抱きテーブルの下に潜り込んで対戦する。そしてついに師に勝利するときが来る。このときの状況が海の底を遊泳する描写でこう記される。

ポーンを抱き寄せ、光の帯に身体を預けた時、少年は今まで味わったことのない不思議な官職を覚えた。少年はデパートの屋上で、海を泳いでいた。水面は頭上はるかに遠く、海底はあまりに深く水はしんと冷たいのに少しも怖くない。怖くないどころか、ゆったりとして身体中どこにも変な力が入っていない。

やがて少年はチェスを指す人形を操る形で数々の試合をして勝利を重ねるが、表に出るのは人形としてのアリョーヒンである。
検索すれば世界最強や最速などが出てくるのがふつうで、検索にかからない存在はないと思われている現在、この小説が描くような人物、チェスで美しい棋譜を残すことに命をかけ、しかしひっそりと試合を続けるような人物が世界という海にはいる、いるかもしれないと思わせてくれることが素晴らしい。

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)