『意識は傍観者である』(デイヴィッド・イーグルマン著、早川書房)を読む。
神経科学を専門にする著者は、本書で脳という精巧な器官は、意識下で多くの仕事を並列で処理していること、それはつまり自分だと意識している「自分」とは、すべてを知っているオールマイティな存在ではなく、自動処理されるプログラムを傍観している存在に過ぎないことを多くの傍証をあげなら説明していく。これの意識下のプログラムは、私たちが進化の過程ですりこまれているもので変えようにも変えられない回路であり、すぐれてスピーディに効率よく仕事をこなす。それゆえに意識からのアクセスは困難なのである。そしてこれら複数のシステムはいつも主導権を握るべき互いに争っているという。感情と理性、右半球と左半球という対立のみならず、記憶のような専門的な領域についても複数のサブシステムが関わっており、競い合うという。記憶は一つという信念も幻想というわけだ。「わたし」という意識は、これらの自動化されたシステムを制御するために存在するCEOみたいなものだと著者はいう。CEOは各部門のソフトウェアは理解しない、する必要もないが、より高いレベルの方向性を決めて、各部署に新しい仕事を割り当てるという譬えで説明している。だから意識とは下に控えているサブルーチンシステムの数や複雑さに応じて(全か無的にではなく)段階的にでてくるものだろう。私の中で蠢いている複数のシステムはいつも一貫したまとまりを示すわけではなく、その時の環境(麻薬やアルコールなどの化学物質や、ホルモンなど)に影響を受けやすい。これまでは他の類書にも書かれているが、本書ではこれから自由意志の問題に論点を移していく。現時点では自由意志があるという納得のいく論拠はいまのところないと著者はいい、これがあるかないか、ある行為が非難に値するかどうかを論じるより、いかに罪を犯した人を更正させるかを追究していくのが重要であると主張する。さらに脳と心の研究を進めて行くにあたり還元主義的な方法だけでは限界があるだろうと述べている。

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

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後半部分の関連書
脳科学と倫理と法―神経倫理学入門

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