『偶然の科学』(ダンカン・ワッツ著、早川書房)を読む。
あるファッションが爆発的に流行したり、ある本が突然ベストセラーになったりする現象を私たちが説明しようとするとき、そのスタイルや本の中に他とは違う理由を探しだす。その「常識」による説明の不確かさと危うさを著者は冒頭で指摘する。私たちは人の行動の理由を自分の知っている動機や信念に着目するが、それはほんの一部でしかないこと、そして人間集団の場合は、個々の人が互いに影響を及ぼし合うことで創発的な効果が生まれるが、この解釈に人はしばしば個人の行動の解釈論理に頼るということ、そしてある出来事の説明をするときに「起こってもおかしくはなかったが起こらなかったこと」よりも、「実際に起きたこと」の説明に偏りすぎるため歴史からうまく学べていないことである。「常識に基づく推論は世界に意味づけをするのは得意だが、世界を理解するのは必ずしも得意ではない」のだ。ある出来事が”なぜ”起きたのかを説明するときに私たちはどうしても後知恵でなんとか常識の中に押し込めようとしてする、つまり説明すること自体が目的となってしまい、未来を予測することに盲目になってしまうらしい。成功例と不成功例を比較考察する必要があるが、歴史の一回性という制約もあるが、私たちはあまりにもその他の大部分の不成功例を無視し、成功した個人や出来事の中に何らかの特質を見いだそうとしてしまう。ツイッターなどのネットワークの中をどのように情報が広がっていくかを分析すると、「結果はそれを引き起こした個人の特性よりもネットワーク全体の構造にずっと大きく左右され」、影響力の強い個人の存在よりも「必要数の影響されやすい人々が存在し、この人々がほかの影響されやすい人々に影響を与えるかどうかにかかっている」と著者は言う。
 社会的な事象は予測をすることが極めて困難だが、著者はインターネットを利用することで比較的安価で短期間に膨大なデータを収集することができること、また社会実験的な環境で仮説を検証することが可能であることから、まだ困難ではあるものの有望な分野であることを強調している。このあたりは経済物理学など新しい学問が興ってきているところでもあり、今後さまざなま解説書もでるだろう。
 本書を読むと、昨年の大地震による災害の原因究明と対策が”常識”的なものになってしまうのではないかとふと心配になった。また交通事故などの災害において個人だけに責任を負わせる法体系が現代社会ではそぐわなくなってきているのではないかと感じた。

偶然の科学

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