『ツナミの小形而上学』(ジャン-ピエール・デュピイ著、岩波書店)を読む。
人類を襲うカタストロフについての哲学的考察をまとめた小著。震災が起こった年のうちに読んおこうと思いつつ、年末になりやっと読むことができたが、やっぱり読めてよかったと思う。本書はもともとスマトラ沖地震による津波被害を契機に2005年に発表された論考だが、わが国では昨年の震災後翻訳発刊されている。この災害がなければもっと紹介は遅れていたかもしれないし、あるいは翻訳されなかったかもしれない。まさに私たちの想像の限界を超える不可能性は私たちのなかに存在する場所がないのだ。著者は時間の不可逆性にもとづく通常の予防原則はカタストロフの前には無力であり、それが運命として未来に刻まれたものとしてとらえ、そこから考える姿勢が必要であると説く(著者はこれを「覚醒した破局論」と名付けている)。冒頭に引用されたギュンター・アンダースの寓話は、特にあの震災を経験してしまった私たちには重くのしかかる。
次いでリスボン地震を見聞した二人の哲学者(ルソーとヴォルテール)の見解を取り上げ、自然災害に人間の責任をみていくルソー的な対応が近代の「形而上学的傲り」に関係していると著者は診断する。現在自然災害は管理予防できるようなものではなく、不透明な世界から降り落ちてくる説明できないものであり、その説明されえないという点については人間の不道徳的行動(アウシュビッツヒロシマ)も同じなのだ。これは人為的悪までも運命として自然化してしまうことではない。覚醒した破局論は、道徳的でもなく自然的でもない第三の悪(システム的悪)を認識するための”狡知”であると断りつつ、そうすることで未来の非現実化という形而上学的な障害物をかわす方法であることを著者は強調する。もとよりそれは処方箋ですらない。
とにかく私たちの国は原発事故を起こし世界を汚染させてしまった。私たちは被害者であると同時に加害者でもある。この”システム的な悪”に対して、私たちは同世代ならびに次世代の人々にどのような倫理的応答ができるだろうか。
本書については、最近出版されたジグムント・バウマンの『コラテラル・ダメージ』(青土社)でも触れられている。

ツナミの小形而上学

ツナミの小形而上学