スピノザの方法』(國分功一郎著、みすず書房)を読む。
ある物事を知るのにある方法を使って正しい解答に到達できるという主張に対して、私たちはその真偽を問うことができるし、その主張が正しい場合、どういう方法を使うのかと問うことができる。スピノザはどんな方法を使えばいいと考えていたのかということが書かれている本だと思って読み始めたが、この本ではそうしたことは主題ではない。そもそもスピノザは”方法”とは何かを論じており、それを丁寧に読み進める本である。まず先人たちがスピノザの方法をどうとらえたかについてとりあげ、そこから「方法の逆説」と「方法論の逆説」という二種類の逆説を指摘する。そこを起点として方法をめぐって現れる三つの形象(道具、標識、道)と無限遡行回避の問題を検討する。第二部はスピノザがそれをどう解決したのかを、『デカルトの哲学原理』を精読することによって突き詰めていく。哲学の方法論を打ち立てたデカルトの方法論をスピノザがどう読んだかを読解することで、スピノザの方法を明らかにする過程を読者は読みすすめるというわけ。この過程は山登りに喩えるとがまんして登らなければならない行程である。しかし第三部に至るとここで見事に眺望が開ける。観念と事物の間に因果関係を認めず(脱表象論的観念思想)、観念の連結が精神を指導していく。この方法は「反省的認識あるいは観念の観念以外の何ものでもない」。知性は観念の連結を形成しつつそれを支配する法則を理解していく。知性の活動と同時に方法論が与えられるのである。本書を通して、スピノザの『エチカ』がとっている”幾何学”的体裁の意味が少しわかったような気がするが、ここで語られる知性というのはまさに数学的知性に当てはまる。
この本は、まず”精読する”という行為がどういうことかを教えてくれる。そしてなによりも、次の文で示されるように、ある思考過程を教えることの哲学を考えさせてくれる。

思惟の過程を一緒にたどってくれる教師は、方法を実現する原理にたどりついたときに消え去るということである。教師はみずからの消滅をめざして活動しなければならない。各々の精神が自動機械として作動し始める。スピノザの方法は最終的に、そのような意味での教育(educatio)になる。スピノザの方法は教育の理念である。

スピノザの方法

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