『神は数学者か?』(マリオ・リヴィオ著、早川書房)を読む。
黄金比はすべてを美しくするか?』の著者が、数学と私たちが経験し観察する世界との関係を考察する刺激的な本。数学は人間が操る論理でありながらどうしてこうも物理的実在の対象にうまく適合するのかという〈数学の不条理な有効性〉(ユージン・ウィグナー)という疑問を軸に、数学史上の人物をうまく登場させつつ話を勧める。著者この点について、自然現象を説明する数学的モデルを展開していく”積極的な側面”とある数学理論があとからときにまったく異なる物理世界の事象を極めて精確に予測する”受動的な側面”があると指摘する。前者はともかく後者において数学の”美しさ”は余すところなく示されるといっていいだろう。数学のプラトン主義者はまさにここを強調するだろう。古代ギリシャ幾何学からデカルトニュートン統計学、非ユークリッド幾何学集合論、結び目理論などの話題を経ながら、数学は発明か発見かという問題に収斂していく。この展開は読者を飽きさせず見事な手さばきだ。最終的に著者はそうした二者択一てきなものではないとしつつ、数学の概念は発明であり、概念同士の関係は発見であると主張している。でもどちらかというと著者は数学=発明的な観点に親近感を覚えているようだ。生物として脳という器官を進化させてきた人間がつくりだしものとしての数学という考えに私も説得力を感じる。数学的発想も進化と自然淘汰を受けるという考え方はかなりいい線をいっているのではと思う。自然の姿を余すところなく精確にかつ美しく描き出すために人間はそれに相応しい言葉を選ぶように数学を構築する。唯一正しい描写があるという保証はないにしてもそれを求めていくことが私たちを豊かにするのだ。数学の素晴らしさを実感できる好著といえる。