ラカン精神分析の治療論』(赤坂和哉著、誠信書房)を読む。
精神分析の臨床経験に即しながら、ラカン派の精神分析の理論と技法を解説する本。ラカン派の本はどちらかというと理論偏重なものが多い印象だが、本書は実践例が適切に織り込まれており、患者のパロールからどう考え、それに対してどう介入して、どういう結果となったかを語っている。そのおかげで対象aや幻想、転移といった概念がすっと腑に落ちる。治療の成果はさておき、まず患者(語る者)の語り(言葉)を重視するという著者の真摯な姿勢がにじみ出ている点が評価できる。ラカン前期から後期にいたるように解説は進み、最終章ではその臨床的アプローチについて以下のような重要な指摘がなされている。

サントームとは(中略)症状とともに作り(faire avec)症状を作品にすることであり、それは芸術・技であって、技量(savoir-faire )を持つことである。つまり「振る舞い(faire)と知(savoir)は技量で接合される」のである。ここにおいて主体は症状を作品にすることで享楽しており、ある意味で幸せであることから、そこから目覚める必要はなくなる。

「分析的解釈は理解されるために作られるのではないのです。それは曖昧さ(vagues)を生み出すために作られるのです」
解釈が短ければ、その意味は多義性を獲得し、一義的に理解されて分析が二者関係に陥ってしまうことなく、効果を発揮するのである。
「解釈が効力を現すのは曖昧で多義的(equivoque)によってだけなのです。反響するシニフィアンの中に何かがなければならないのです」
そして、言語的な水準に関してさらに言えば、この水準をもっと下げていくと、それは「空白をもつ解釈」になっていくということである。

最後に精神疾患の診断についてのDSMについての構造上の批判の後に語られる言葉ば精神分析のみならず現在の私たちの精神的営みすべてについての警告である。

本来多義性を有する物事の意味が削減されるこのような現状では、多くの物事が単純明快に語られ、人々に考える余地をなくさせてしまう。その結果、最も多義的で複雑であるものの一つである日常生活における私たちの意味の問題も、パロールを経ることなく矮小化されてしまうのである。

言葉の力を衰退させないためには、曖昧さと多義性に耐えつつ言葉を交わし続けなければならない。

ラカン派精神分析の治療論―理論と実践の交点

ラカン派精神分析の治療論―理論と実践の交点