『隠れていた宇宙』(ブライアン・グリーン著、早川書房)を読む。
宇宙(ユニバース)は本当に一つだろうか? この素朴だけど誰も本当の答を知らない疑問、ユニバースという語義からすると矛盾する質問に対して著者は語り続ける。インフレーション理論から生み出される並行宇宙、超ひも理論から生まれるブレーンワールド、サイクリック宇宙、ランドスケープ理論の目くるめく世界、そしてこれらの理論が紹介された上巻の最後で著者はこう問いかける。「これは科学か?」と。実在の実験的裏付けがあるから科学ではないのか。観測できない宇宙なんてもちだして大丈夫なのという不安に対して、著者はすべてにおいて検証可能である必要はなく、予測がしっかり立証されていれば十分だと答える。人間原理の問題も指摘しつつ、著者は「多宇宙が私たちを袋小路に導く可能性があるからと言って、それに背を向けるのは、同じくらい危険だ」と説く。なにが実在なのかをめぐる問題について著者は次のように述べる。

数学そのものが固有の構造によって現実のありとあらゆる局面(中略)を形にできるという考えを理解すれば、私たちの現実は数学にすぎないと想像するようになる。(中略)現実とは、「数学がどう感じられるか」にほかならない。(中略)
 ニュートン方程式であれ、アインシュタイン方程式であれ、ほかの何であれ、数学はそれを例示する物理的実体が生じるときに実在になるのではない。数学-すべての数学-はすでに実在であり、例示を必要としない。異なる数学方程式の集まりは異なる宇宙なのだ。したがって〈究極の多宇宙〉は、この数学観の副産物である。

最終章に記されている「数学は宇宙の実像という織物にしっかり縫い込まれている」という表現は、同じ著者による『宇宙を織りなすもの』を連想させるが、宇宙の実像を求めて果敢に挑戦する著者の姿は感動的だ。

昨晩宇宙ステーションからの生中継映像を見た。「宇宙の渚」で生起する現象を眺めつつ、みずからを渚で遊ぶ子供に喩えたニュートンのことを考えた。

隠れていた宇宙 (上)

隠れていた宇宙 (上)

隠れていた宇宙 (下)

隠れていた宇宙 (下)