『全身翻訳家』(鴻巣友季子著、ちくま文庫)を読む。
池澤夏樹個人編集の世界文学全集ではヴァージニア・ウルフの『灯台へ』を翻訳した著者のエッセイ集。これを読むとやっぱり翻訳家って言語感覚が鋭いなあと感心する一方で、やっぱりおかしな人種だなあと笑ってしまったり(ごめんなさい)、言葉をめぐるエッセイというのは読んでいて飽きない。ちょうど並行して翻訳可能性について書かれている哲学エッセイを読んでいるので、外国語を自国の言葉に訳すという著者の言葉にも重みも感じる。いわく「翻訳というのは、ひとことで言うと〈解釈〉のことだ。一行一行、一語一語が、ある訳者によって解釈、言いかえれば〈批評〉され、それが綿々と積みかさなったものがひとつの作品になり一冊の本なりになる」、「訳者は数々の他人の人生を生きる。それに倣っていえば、訳者は他者のことばを生きる」、「翻訳とは、自分のことばの言語領域を離れて、訳語という仮住まいをただ訪ね歩くエトランジェになることだ」と。新訳について語った「新訳は名作の証し」というエッセイでは、「作品をいちばんよく理解できるのは同時代人とは限らない、とはよく言われる言葉だ。むしろ時代が変わって新しい解釈にさらされてこそ、理解は深まるといえる」ことから、これは翻訳にも当てはまることはあるとしつつ、著者は旧訳と新訳の優劣はいちがいに決められるものではなく、新訳における解釈の変化を受け入れるほどの深さがその文学作品にはあるのだと指摘する。なるほどなあと思う。だとするとある文学作品の新訳が出現する時機というのは、まさに時代がそういう解釈を欲している時だったりもするのかなと考える。世界の明日に対する不安が鬱積している現在、今度はどんな世界文学の古典の新訳が登場するだろうと思いつつ読了した。

全身翻訳家 (ちくま文庫)

全身翻訳家 (ちくま文庫)