『感覚の幽い風景』(鷲田清一著、中公文庫)を読む。
表題にのように”幽”が使われているように、この”くらさ”とは境界線がはっきりしない”くらさ”である。著者はさまざまなな感覚にまつわること(視線や声、肌触りなど)をめぐって考察をしていく。そして外界とはっきり境界された個が刺激を受け取り定量的な反応をするという思考をゆさぶる。読み進めるうちに著者の感覚をめぐる考察の迷路で迷っている自分にきづく。感覚が関係的な性質であり、それを受け取る側の動的な構えが浸透していることは、他の哲学的考察でもつとに指摘されていることだ。でもそのことをまさにそれにふさわしい語り口で語ることにおいては著者の右にでる者はなさそうだ。たとえば著者は”まさぐる”ということについてこう述べる。

まさぐるとはそういうことであり、けっして身体の表面が物に接触するという偶発的な出来事なのではない。対象を探りにゆくという能動性、そう、聴診のように、対象の様態を慎重に確かめる、あるいは対象をそのままいただくというような、外物への強い関心のなかでこそ、触れるという出来事は起こるのだ。撫でる、まさぐるということ、これはなにも異性の神秘的な肉体へのかかわりに限られるものではない。わたしたちは物にもまた、愛撫することなしには、抱擁することなしには、触れられないのだ。衝突はしても。

このような”感じさせる”哲学的文章を読むことが悦楽ではなくて何だろう。雨の続く暗い明け方に本書を読み進めながら、私はすっかり”感じてしまった”。