『武士道』(相良亨著、講談社学術文庫)を読む。
スポーツの世界大会で日本人選手が”サムライ”と呼ばれたり、今度の震災で日本人の冷静な行動が武士道と結びつけられて報道されたりしていたが、武士道とはそもそもどんなものなのかと思い手にとった本。
 著者は、まず「人前を偽り飾ることなくありのままの自己を以て立つこと、さらにいえば、ありのままの自己を以て勝負する姿勢」を武士的な姿勢の第一としてあげる。ありのまま、すなわち事実重視の姿勢であり、事実を以て語らしむというところから贅言を弄しない寡黙な姿勢が自ずから出てくる。続いて武士が重んじる名について語られる。著者は『菊と刀』の恥から理解する視点を本来の恥とは異なるして批判し、廉恥を重視するのは一人の武士としてその名を惜しむことと同じであることを指摘する。個人としての名の重視は、ときとして主従関係の自己犠牲と衝突することもあるが、そこに著者は歴史を作り出すダイナミズムを見ている。その姿勢を和辻哲郎の「おのれの面目はおのれの命よりも貴いということを、おのれ自身の前にはっきりと示したい」のであるという理解に加えて、自他の区別以前の一体的で普遍的な良心の存在をみている。続いて武士の死に対する理解に触れ、武士の死に対する覚悟は仏道の悟りとはまた別であることを指摘している。武士は『碧巌録』を読むべきとされたが、全部読むと”悟って”しまうので、全部読んではいけないとされたということを紹介していて、この点は面白い。あくまで現実世界に身を置きつつ、死に瀕するような危機的事態に対してぶれないことが重視されていたということである。武士としての「個」の重視が草莽崛起に繋がっていること、そして明治の独立の精神にまで及ぶことが示されている。しかしこうした「個」を頼み自律した精神の負の側面ということも同時に指摘されるべきではないかと思われた。またこうした武士という「男性」としての視点からすると女性というのは外見に囚われた否定的な存在として扱われているのは、過去の歴史ではしかたがないとしても、依然としてそうした視点が存続していることも日本の男女差別を考える上で参考になると思った。

武士道 (講談社学術文庫)

武士道 (講談社学術文庫)