『敗北を抱きしめて 下』(ジョン・ダワー著、岩波書店)を読む。
下巻は東京裁判憲法制定を巡っての記述が続く。この話題は他の歴史書でも取り上げられる戦後史の焦点であるが、本書であらためて知ったのは当時の言論や報道統制の厳しさだった。今でこそネット環境が整い日本では自由放埒に言論がなされているが、ほんの少し前まで隣国のような状況だった。ツイッターが火をつけた民主化運動の動きもまず私たちも以前そうした歴史を持っていたことをまず知ってから考えなくてはと感じた。

そもそも、勝者にとっては、敵が証拠を隠滅あるいは歪曲しようとするだろうと考えるのは至極もっともだったし、じっさいにそうしたことが起こっている。また勝者の側は、被告たちがこの裁判を自らの後遺の正当性をあらためて主張するための縁談として利用するのではないか、と恐れていた。これを防ぐために、被告たちが自己弁護の名目でもちこむことのできる証言や「証拠」に制限を設けなければならない、と考えたのである。
(中略)
東京裁判は、植民地主義帝国主義の世界と、平和と人道に対する犯罪の追求という高邁な理想との矛盾を、無視することによって基本的に解決した。日本の侵略行為は、挑発も、対応する事象もない、ほとんどいかなる背景とも無縁な犯罪として提示されたのである。検察側はアジア人のほとんどが知るアジアの文字通り盲目なのではないか、と思わせるような事例もあった。

敗北に際して正義が貫徹されなかったことは、一見治癒したと思われるこの国の傷の底に深く壊死して慢性に進行する精神的病いを植え付ける結果に終わったのだろうか。

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人