『日本語の語源』(阪倉篤義著、平凡社ライブラリー)を読む。
著者は大正六年生まれで平成六年に亡くなられている国語学者で語構成論という分野を切り開いた学者と解説にある。その著者による語源論ということで、まず語源をどう考えるかという点から論は始まる。著者はことばというものを生きているものとして捉えているようで、語源の考察にあたり、類型的に扱うことに陥らぬようにしている。この点について今回の増補で大野晋氏との間に論争があった「神」の語源についての論文を収めているのは、著者の冒頭の言葉を確かめる上で適切だったといえよう。

「ことば」は人間のつくり出すものである以上、そこに、こういう、複雑微妙な心理や意識の反映があることを、当然よそうしなければならない。簡単にパタン化したり、法則性を適用したりできないものが含まれるだけに、推論には、なかなか困難がある。それが語源探究のむずかしい点であるが、同時にまた、そこにこそ、「ことば」という生きものの本当のありようがうかがえる。

本書の中で特に興味深かったのは、「かなし」という語源についてで、その語源を「かぬ(兼ぬ)」という動詞に求めるというものだった。「ある一点を基準にして、それから他の点にわたって、これを併せることを意味する」この言葉から、その対象が欠如していることが「かなし」であり、さらにその対象を激しく志向することで「そういう対象を自分のうちに取り込んでしまいたい、とまで感じる積極性を帯び」ることも「かなし(愛し)」の一形態であるという説明は引用されている万葉歌を鑑賞しつつ読み進めると、実に腑に落ちるのである。
 こうして語源を知ることで、たいせつなのはちょっとした蘊蓄が増えることではなく、現在の私の「かなしさ」という感情にまた微妙な彩が加えられ、万葉時代の人と交流することが可能になることなのである。

増補 日本語の語源 (平凡社ライブラリー)

増補 日本語の語源 (平凡社ライブラリー)