漱石 母に愛されなかった子』(三浦雅士著、岩波新書)を読む。
夏休みの課題図書に必ずあったせいか、夏になると漱石の作品やそれに関連する書物を読みたくなる。そこで今回読んだ本。母に愛されているかどうかという根源的な懐疑に苛まれていた漱石という視点から『坊ちゃん』から『明暗』に至る作品を読み解いていく評論で整然とした論の運びには間然とするところがない。母に愛されなかったことを『虞美人草』を書くことにより母を罰し、『三四郎』、『それから』、『門』では愛していること、愛されることに気づかなかったことによって復讐される物語であると指摘する。続いて『彼岸過迄』は『虞美人草』と似た構造を持っているが、『彼岸過迄』は、『虞美人草の』甲野にそれはあなたの被害妄想にすぎないと宣告する物語だと喝破する。著者は『彼岸過迄』の視点に漱石が立つことができたのは修善寺での大吐血という死と再生の経験があったからだという。その後執筆された『心』は、それまでの漱石の葛藤を集約した作品であり、『道草』へと至る過程であったことが説明される。『道草』は今ある自分の存在を自明視しせず「心の癖」を探究するところが優れた点であり、最後の『明暗』は「母に愛されなかった」という点からさらに人間の承認の問題へと広がりが見られていることに読者の注意を喚起する。ここでは承認の問題をめぐって『野分』と『明暗』の立場が百八十度違うことが述べられ、晩年の漱石の境地である「則天去私」の解釈も文字通りのものではないという見事な展開には唸らされる。新書で二百余頁の分量だが実に濃密で読み応えのある評論だった。

漱石―母に愛されなかった子 (岩波新書)

漱石―母に愛されなかった子 (岩波新書)