『破壊する創造者』(フランク・ライアン著、早川書房)を読む。
原題は『Virolution』で、ウイルスと進化を合わせた造語になっているように、ウイルスが生物の進化に大きく寄与していることが中心に取り上げられています。著者は医師でもあるのですが、ウイルスを従来のように私たちにとっていぶつであり、敵である存在として狭く捉えるのではなく、共に影響しながら進化してきたパートナーのようなものとして理解することが必要であると主張しています。実際私たちのゲノムは機能性遺伝子をコードする領域より機能不明な領域の方がほとんどで、その中にはウイルスと類似した配列が多数存在しています。ヒトの内在性レトロウイルスHERVは疾患にも関与していることは容易に想像がつきますが、胎盤組織でシンシチウムを形成する際にHERVが関与していると考えられる知見などを見ると、胎盤保有するように進化した哺乳類とウイルスの共進化があったのだろうと思え、狭い意味での突然変異と自然選択だけではない進化のメカニズムの存在に自然の深淵さを感じます。その他の進化のメカニズムとして、異種交配の話題も取り上げられており、正倍数性交配種が動物にも存在すること、ヒトの出現と進化(チンパンジーとの分岐やネアンデルタール人との関係)が語られています。最後には今話題のエピジェネティクスに関する研究の知見が紹介されています。一つ一つの細胞で起きる突然変異に加えて、環境の影響によるエピジェネティックな変化も考えるとまさに私たちの体は、無数の個別性が複雑に組み合わさってできた脆い存在だということになります。生物の個体の独立性という概念を大きく揺るがせ、考えさせる一冊でした。
医学生物関連の術後がかなりたくさん出てきますが、巻末には用語解説もついています。

『〈わたし〉はどこにあるのか』(マイケル・S.ガザニガ著、紀伊國屋書店)を読む。
書名のような問いを問われると何を当たり前のことをと問われそうですが、本書はそうした反問が実は当たり前のことではないということを近年の脳科学の知見から説明していくという本です。著者が行ったギフォード講義に基づいて書かれているので、非常に読みやすくなっています。最初に脳という器官も進化による自然淘汰の賜物であり、遺伝子が規定する配線に後天的に加えられる刺激により神経細胞の成長や接続が変わりうるということを説明し、さらにヒトの神経系は他の哺乳類とは異なる特有なものでありうると著者は述べています。続いて脳というシステムはさまざまに機能分化したモジュールが並列分散処理を行うものであり、これもニューロン数が進化により増えてきて、効率よく機能させる工夫の結果だったというのです。ここから並列分散処理でありながらも「わたし」という統一感がいじされているのはどうしてだろうという疑問が湧いてきます。著者はこの問いに対して、左脳には”インタープリター・モジュール”というものがあり、脳への入力っを受け取り、「語り(ナラティブ)」を構築することによってであると答えます。ここは著者が研究してきた分離脳についての知見が説明され、なかなか熱のこもったところで読んでいて非常に興味深いところです。これを受けて(原題の”Who's in Charge?"にあるように責任者は誰なのかという)自由意志の問題の考察へと進んでいきます。著者はニューロンの活動は複数のモジュールが相互作用して生まれた結果であり、自動的決定論的でありつつも、創発的であり、内外で生まれる相補的な要素が行動を形づくっているのだと説明します。脳と脳とのあいだの空間で生まれる特性の一つのが責任であり自由という概念であると。高度な社会性をもった人間だけにこうした社会から脳へのフィードバックが働くことで責任が生まれ、それが脳に制約をかけ個人の選択に影響を及ぼすというわけです。最後は司法制度と脳の問題が論じられます。正義と懲罰の概念は、人間の脳と精神と文化の相互作用の産物であり、進化でのニッチ構築のモデルの重要性を著者は強調しており、道徳の普遍性と徳の地域性を考える上で興味深い点です。自由意志の問題は刑法における処罰の目的とも大きく関係するところであり、まだ脳の状態が証拠となるには時期尚早であるものの、個人に対する懲罰の意味を考える上で避けてとおるわけにはいかない問題と言えるでしょう。脳科学の興味深い知見の幅広い紹介から、哲学的問題へと繋がっていくいい本でした。

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

『見てしまう人びと』(オリヴァー・サックス著、早川書房)を読む。
幻覚というと最近の危険ドラッグの報道もあり、狂気、凶暴、危険という連想が働くと同時に正常な人にとっては無縁なものだと思われています。しかし本書は幻覚という現象が正常と狂気を分ける兆候などではなく、感覚のインプットに障害が起きたときの脳が示す、「まっとうな」反応なのだということを教えてくれます。冒頭にでてくるシャルル・ボネ症候群の患者は、まったく精神疾患の兆候はなく、著者は実際よりもよく遭遇するものではないかと述べています。人や動物などの複雑な幻覚のみならず、単純な形や色、そして文字の幻覚もあるそうです。近年の神経科学の発達から生じる幻覚によって活性化される脳の部位が明らかにされつつあることを読むと、幻覚という症状も脳以外の部位の傷害と症状の関係と大差はないと思われてきます。健常者であっても感覚が遮断されると比較的容易に幻覚をみるようになること、視覚幻覚だけではなく、嗅覚や聴覚などさまざまなものがあり、音楽幻聴については同じ著者の『音楽嗜好症』に詳しく書かれています。パーキンソン症候群片頭痛てんかんナルコレプシーなどの内科的な疾患でも幻覚はみられることも紹介されています。いわゆる金縛りという入眠字幻覚などは体験者も多いと思います。驚いたことには著者自身も幻覚剤を自ら試し、その体験談が語られていることです(アンフェタミンまで試している!)。幻肢やドッペルゲンガーなどについても触れられており、こうした現象を知ると私たちが普段当たり前だと思っている「現実」というものに対する自信が揺らぐのを感じますが、逆にそうした「病い」に対する理解を深めることができます。
しかし、これほど具体的な幻覚の描写を読むと、外界の対象を知覚を通して現実を体験するということと脳の活動によりありありとした幻覚を体験するということのどこに差があるのかとおりいっぺんの説明では腑に落ちなくなりますね。

見てしまう人びと:幻覚の脳科学

見てしまう人びと:幻覚の脳科学

『なぜ生物時計はあなたの生き方まで操っているのか?』(ティル・レネベルク著、インターシフト)
単細胞生物から哺乳類までが持っている体内時計についての興味深いと同時に現代社会の暮らし方について考えさせる一冊です。この体内時計は誰もが持っているものでありながら、そのパターンは人によって違っていて、大雑把にいうと朝型か夜型かというパターンがあります。これを「クロノタイプ」と呼びます。このタイプは、誤解のないように急いで付け加えると、朝型、夜型と二分できるものではなく、睡眠の中央時刻の分布で示される(正規分布を示す)連続的なものです。そして睡眠時間と比例するものではなく、睡眠中央時刻が早い人でも睡眠時間が短い人もいれば長い人もいるのです。そして体内時計の周期はぴったり24時間ではないのです。体内時計は複数あり、そのマスターになるのが視交叉上核です。これがうまく体内時計を調整していますが、旅行での時差ぼけやシフト勤務などにより狂うことがあります。体内時計は男女間でも差があり、ライフステージによっても変化するということが示されており、老若男女間で見られる差が同居社会生活を営むときに支障が出てき得ることが示されていて、興味深いことです。さらにこうした時間時計が生殖のリズムやうつ病による自殺にも関係していること、さらには性格や職業選択にも影響しうることは驚きです。個人のクロノタイプにあったライフスタイルを選択できるようにすることでよりよい生活が営めるという主張は、難しいことではありながら実現させたいことだと大いに感じます。

なぜ生物時計は、あなたの生き方まで操っているのか?

なぜ生物時計は、あなたの生き方まで操っているのか?

『低地』(ジュンパ・ラヒリ著、新潮社)を読む。
同じクレストブックスで『停電の夜に』を読んでから私がお気に入りになった作家の長編小説です。カルカッタ郊外生まれの兄弟スバシュとウダヤンがゴルフクラブに忍び込む場面から物語は始まります。長じて二人とも高校で、光学、力学を学び、弟のウダヤンは物理を、兄のスバシュは化学工学を専攻します。しかし折しも共産勢力の武装蜂起が起き、治安当局と対立する状況になり、活動に加担していた弟は警察から家族が見ている前で射殺されます。残された弟の妻ガウリを伴い、兄はアメリカへと旅立ち二人は夫婦となりますが、結局破綻し、妻は弟とのあいだにもうけた娘を残し姿を消します。愛する者の不慮の死によって変えられた三人が歩むそれぞれの生がときに寄り添い、ときに離反し描かれ、それぞれが捨てざるを得なかったものを抱えつつ生きていく姿がとても印象的です。小説の表題は、主人公たちの土地にあった湿地帯を指していますが、ラヒリの小説の登場人物はある場所に繋がれているという特徴があり、それが小説の厚みを増しているように思われます。終盤は読み終えるのが惜しくて毎日少しずつ読み、ついに読み終えたときの深い余韻は期待に違わず心地よい作品でした。

低地 (Shinchosha CREST BOOKS)

低地 (Shinchosha CREST BOOKS)

『遺伝子が語る生命38億年の謎』(国立遺伝学研究所編、悠書館)
分子生物学、遺伝学などの最先端の話題を取り上げ、平易に解説した本です。5部構成で、1生物進化、2人類進化、3ゲノム、4細胞と染色体、5発生と脳という中にそれぞれ3〜5つの章が含まれています。興味深かったのは、第3章の多細胞動物の起源の謎 (多細胞動物のボディプランの進化をカイメン動物や平板動物を元にしてどのように考えるかを考察)、第5章の多様性を生みだす進化の謎(新たな性染色体の生成から新種が誕生する仮説の解説)、第11章 行動遺伝の謎(行動の遺伝についてマウスを用いてどのようにするかの解説)、第15章細胞の建築デザインんの謎(細胞におけるテンセグリティ構造とは何かについての説明)などです。各章すべてその話題で一冊の本ができるトピックスなので、その序章を集めたものという感じの本です。

『言論抑圧 矢内原事件の構図』(将基面貴巳著、中公新書)を読む。
東京帝国大学教授の矢内原忠雄が著した論文『国家の理想』が引き金となった退職は、言論の自由の抑圧の史実とされていますが、当時の状況に即したとき、実際にどのうような事件だったのかを、著者のいう”マイクロヒストリー”によりあぶりだした書です。過去は二度と繰り返されませんが、「過去から何かを学ぶことが可能であるとすれば、そのひとつの方法は、過去のある時点という状況において、現代においても問題たりうる論点がどのように論じられ、どのような解決が試みられたかを学ぶことではないだろうか」と著者は冒頭で問題提起します。そしてこの問題提起は今最も必要な問いであるように思います。この事件を巡って愛国心の問題と学問と大学の自治の問題が取り扱われます。当時矢内原と対立していた国家主義のイデオローグの蓑田胸喜の、それぞれの「愛国」を対比させ、正義の下での国家と、国家の下での正義が論じられます。そうした思想的対立を巡る史実もさることながら、面白かったのは、大学の自由が国家により脅かされるようになったとき、それに対峙する総長という立場の人となりに依存したシステムの脆弱性が事態の進行に重要な要因となったことや、言論の抑圧が積極的な排撃というより、言論する「場」をなくしていくという目立たないけれど確実に退場させていくやりかたで進行していったということです。「言論界の大局的な動向を見定めるうえで重要な姿勢とは、どのような言論人が何を言っているか、を常に満遍なく押さえることではないだろう。むしろ重要なのは、どのような言論人がが表舞台から消えていったか、どのような見解をメディアで目にすることがなくなったかについて、把握すること」であると最終章で著者は論じています。
本書で初めて知りましたが、出版元の中央公論新社は矢内原氏と浅からぬ縁があったのですね。新書ながら密度の高い中公新書らしさがよく出ている一冊でした。

言論抑圧 - 矢内原事件の構図 (中公新書)

言論抑圧 - 矢内原事件の構図 (中公新書)

『怨霊とは何か』(山田雄司著、中公新書)を読む。
日本古来からある怨霊というものの歴史的変遷を三大怨霊(菅原道真平将門崇徳院)を中心に辿っていく本です。最初に霊魂がどのようなものかについて概説されます。人の魂は身体から遊離可能なものであり、死に際して身体から出て行くものであると同時に、魂を呼び寄せて肉体に戻すことも可能であった考えられていたこと、遊離した魂は天上や山、海、樹木などさまざまなところを居所としたことが説明されます。続いて怨霊と日本史の関わりになるのですが、古代・中世においては怨霊対処が国家的な課題であったことが説明されます。どこからともなく現れて厄災をもたらすゴジラに国を挙げて対策をとっているようなイメージでしょうか。この対策が仏教主導で行われたのは、仏教が死後の世界の体系を持っていた、すなわち成仏の方法論をもっていたからだそうです。第三章から五章まではいわゆる日本三大怨霊の厄災から鎮魂までがさまざまなエピソードを交えて紹介されます。どの怨霊に対しても敵として殲滅するのではなく、慰撫する方法で対処されたというのが日本独特なのか興味深いところです。どの怨霊も時代背景の動きがその強さと関係しているようですが、特に崇徳院武家社会の成立と連動していたことから、その影響が大政奉還後の明治まで及んだようです。最終章では、全体を通して怨霊観が戦国時代を境にして大きく転換し、少なくとも国家が神をなだめることはしなくなったこと、逆に傑出した人が神として祀られるようになってきたことを指摘しています。これを通して人と神の区別が曖昧であること、死すれば官軍でも逆賊でも等しく祀られ救済の対象となることが日本人の中にあることが分かります。こうした日本独自の文化が争いを宥和させる面をもっている反面、靖国問題等諸外国には理解されにくい軋轢を生んでいることもまた事実でしょう。
怨霊を通じて日本の心性を考えさせる良書だと思いました。